通巻第45号 フットボールの力、言葉のチカラ
徹マガ歴代ゲストによるチャリティーメッセージ

(C) tete Utsunomiya


■目次

■長束恭行さん「ご冥福をお祈りします」
■アンディバクティアール・ユスフさん「日本は必ず再生する」
■篠原美也子さん「信じること、祈ること」
■財前宣之さん「一人でも多くの人が助かってほしい」
■ヴィタヤ・ラオハクルさん「日本人には、誰にも負けないディシプリンがある」
■中村和彦さん「思いを馳せること、きちんと考えること」
■吉田鋳造さん「人間は、しぶとい」
■三原健朗さん「人生を決してあきらめないで」
■中村武彦さん「一刻も早く、平穏な日々が戻られますように」
■在米プレイヤーの取り組み
■千田善さん「あなたたちと共にある」
■島田哲夫さん「私は、忘れない」
■編集部より「親愛なる読者の皆さまへ」



 東北関東大震災の発生から2週間が経過した。

 震災前の後とのあまりの世界の変わりように、写真家・ノンフィクションライターとして、そして徹マガという個人メディアとして、どのようなスタンスをとるべきか。地震発生から1週間は、ずい分と逡巡を余儀なくされ、そのため前号の配信も大幅に遅れることになってしまった(楽しみにしていた皆さん、本当に申し訳ないです)。とはいえ、一度決断してしまえば、あとは行動するのみである。今号の企画しかり、フモフモコラム編集長インタビューしかり(次号より前後編で配信予定)、そして来月のヨーロッパ取材もまたしかり。それまで停滞していたのがウソのように、どんどんと決断のスピードが増していくのを感じる。

 そんなわけで今号は「フットボールの力、言葉のチカラ」というテーマで、徹マガ歴代ゲストによるチャリティーメッセージを一挙に掲載することにした。早いもので、徹マガも通巻45号となる。その間、さまざまな魅力的なゲストにインタビューを試みてきたわけだが、あらためてそのリストを眺めてみると、その肩書きは実にバリエーションに富んでいることに気付かされる。プロサッカー選手、指導者、映画監督、通訳、ジャーナリスト、アーティスト、ブロガー、そしてスポーツビジネスのエキスパート、などなど。

 これらゲストの皆さんから、震災復興に向けたチャリティーメッセージを募ることを思いついたのは、今月17日のこと。すぐさまリストを作成し、私と編集者Sのふたりで手分けして、メッセージ執筆の依頼メールを一斉に送ったのが翌18日。締め切りは5日後の23日に設定させていただいた。

 告白すると、当初は非常に不安であった。急なお願いだった上に、皆さんそれぞれにお忙しい。加えて、原発危機やら余震やら停電やらで、国内にお住まいの皆さんはとても落ち着かない日々を過ごしていたはずだ(もちろん海外で暮らしている皆さんも、祖国を襲った災厄に気が気でなかったことだろう)。しかも、今回は「チャリティー」という主旨ゆえに、ノーギャラでのお願いである(今月分の徹マガの売り上げの半分を、義援金として寄付する旨はお伝えしたが)。果たして、どれだけのメッセージが集まるのだろう――。

 結論から言えば、私の懸念は杞憂に終わった。今回、原稿依頼をお願いした方々のほぼ全員が、期日までにメッセージを送ってくれたのである。しかもそこにつづられた言葉の数々は、こちらが想定していた以上に真摯で格調高く、そして力強いものばかりであった。私と編集者Sが、この企画に大きな手応えを感じたことは言うまでもない。と同時に、私は確信した。「これまでの徹マガの方向性は、決して間違っていなかった」と。

 それぞれジャンルは違えども、これまでゲストとしてインタビュー取材させていただいた皆さんは、その実績や活躍ぶりはもちろんのこと、人間的にも尊敬できる方々ばかりであった。その事実を、今回の企画を契機にあらためて感じ入ることとなった次第だ。ともあれ、前口上はこれくらいにしよう。今号での私は、あくまでも裏方。さっそく歴代ゲストの皆さんから送られたメッセージをお届けすることにしたい。



長束恭行さん(サッカージャーナリスト・通訳)
「ご冥福をお祈りします」

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。国外にいると無力感ばかりが募りますが、世界中の誰もが日本を想ってくれているのを目にすると、私自身も一国民として恥ずかしくないよう振る舞わねば、と励まされます。
 クロアチアでは反政府デモの最中、5,000人近いデモ隊が日本大使館を前に立ち止まって被災者に黙祷を捧げ、私が住むリトアニアでも日本大使館前に折り紙の鶴や花が結び付けられています。今日は雪の降る中、ろうそくを捧げに訪れたご年配の女性をお見かけし、すかさず感謝の言葉を伝えました。一人一人の想いと支援が届き、被災地が一日も早く復興することを願っています。


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長束恭行(ながつか・やすゆき)
 1973年1月9日、愛知県名古屋市生まれ。サッカージャーナリスト・通訳。クロアチアのサッカー事情をネット上メインに紹介しながら、日本のメディアへの寄稿や、現地コーディネーター・通訳を務める。06年のW杯では「クロアチア博士」として「やべっちFC」に出演を繰り返した。訳書として「日本人よ!」(著者:イビチャ・オシム、新潮社)など。10年間のクロアチア滞在を経て、今年の2月末にリトアニアの首都ビリニュスに転居。徹マガには「さらばクロアチア」(通巻第41号&42号)にて出演。



アンディバクティアール・ユスフさん
(映画『ロミオ&ジュリエット フーリガンの恋』など監督)
「日本は必ず再生する」


we can feel what happen these days in japan, since we (Indonesia) also suffer several disasters for the last few years. but believe me, that whatever happen these days won’t weaken japanese since you’re much stronger than us.

what happened some days ago will only make you stronger as what happened many years back in 1945. You guys are the strongest nation I ever know in life. Visiting Japan month ago gave me a true and strong view about japanese and gave me a strong faith that you can hold up and get back to your feet very soon.

you’ve came back from a bigger disaster in 1945 and i don’t see any reason that you can’t do exactly the same thing this time. we’re not better than your….indeed, but believe us, that we will do anything to help and support you all.

【抄訳】日本で起こっている事態の辛さは、われわれインドネシア人には理解できる。ここ数年で、私たちも同じように大災害に見舞われたからだ。今は、誰もが大変辛い時を過ごしているだろう。だけど、どうか信じてほしい。あなた方日本人は、必ず立ち直ることができる。われわれインドネシア人よりも、日本人ははるかに強靭だ。1945年の敗戦から力強く復活したように、今回の出来事もきっと乗り越え、一回り大きくなれる。日本は、私が知る限り最もタフな国だ。

 1カ月前に日本を訪れ、私が考える日本人の資質に間違いはないことを確信した。今は難しくとも、きっと自分の足で歩き出す日が来る。1945年、焼け野原となった地からここまでの再生を成し遂げた。同じことが、現代の日本人にできないと考える理由はない。われわれインドネシアは日本ほど優れてはいないが、とりうるすべての方法を使ってあなた方をサポートしたい。


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 アンディバクティアール・ユスフ(Andibachtiar Yusuf)
 1974年1月15日、ジャカルタ生まれ。03年より数本の短編映画を制作して映画監督としてのキャリアを始め、これまでに『ロミオ&ジュリエット』含め3本の長編映画を監督。作品の1つが06年W杯のオフィシャル・エレメントに採用されるなど、アジアを代表する新進気鋭の監督の1人。徹マガには「フットボールと映画の幸福な結婚」(通巻第43号)にて出演。


篠原美也子さん(シンガーソングライター)
「信じること、祈ること」


 私は、シンガーソングライターです。30年近く歌を書いて来て思うのは、言葉は基本的にネガティヴから生まれる、ということです。何もかもオッケーの時、人は多くの言葉を必要としません。言葉はピンチにこそ生まれ、欠落を補うために、人は言葉を発し、あるいは言葉を必要とします。

 地震と、それに続く原発事故で、かつて経験したことのない不安に包まれている今、世間には言葉があふれ、同時に言葉が荒み始めています。ツイッターは抜群の安定度で被災地情報の流通に大活躍しましたが、原発問題が深刻化して行く中で、誰もが疑心暗鬼の塊となり、政府を、東電を、原発を、ついでに石原慎太郎を、責め、批判し、陰口を叩き、犯人探しに躍起になっています。そうでもしないと、押し潰されてしまう。心の値段が下がり、言葉が汚れて行くのを見ながら、不安、というもののパワーの凄まじさに、圧倒されています。

 私はプロなので、ネガティヴや絶望から生まれた言葉を希望というかたちに変えて伝えることが、仕事です。これを越えたら必ず、音楽にしか出来ないことをやる時が来る、その時のために準備を続けています。東京生まれ東京育ち、小2の息子を持つ私自身も、もちろん不安です。でも、たとえ真実がどのようなものであったとしても、人のせいにせず潔くあれと歌い、生きて来たつもりです。安全な場所から言葉だけを投げる下品さが、私は嫌いです。それは誰も救いません。

 恐れながら、心が折れそうになりながら、それでも信じること、祈ること。嘘のない勇気。それを、言葉ではなく伝えてくれるもの。

 スタジアムの芝生の匂いを、歓声を、人が走る、ただそれだけの姿を、今ほど恋しく思ったことは、ありません。

(C)room493

 篠原美也子(しのはら・みやこ)
 1966年東京生まれ。17歳から曲作りとピアノ弾き語りによるライブ活動を開始。93年テイチクバイディスレーベルよりシングル「ひとり」でデビュー。08年までに、セルフカバー・セルフセレクションを含む17枚のアルバムを発表。10年9月、3年ぶりのオリジナルアルバム「バード・アローン」リリース。日々の些細な喜びや悲しみ、迷いや怒りを、時にやさしく時に鋭く描く歌詞と繊細なメロディは世代を選ばず多くの共感を呼ぶ。力強い歌声と言葉を武器に、等身大の生き様を表現し続ける正統派シンガーソングライター。徹マガには「書くこと、そして歌うこと」(通巻第20号&21号)にて出演。



財前宣之選手(BEC テロ・サーサナ/タイ)
「一人でも多くの人が助かってほしい」


今回の地震で、11年住んでた東北が一番被害にあったとのことで
大変心を痛めています。

僕がサッカー人生で1番お世話になった場所ですし、
みんなには今でもいっぱい応援してもらってます。

みんな元気か心配です。

自分にできることは限られてますが、力になれるように頑張ります。
タイでは支援募金にみんな協力してくれています。
タイの方々は以前おきたプーケットの津波で
日本が助けてくれたことを忘れてません。今こそ恩返しだと。

一人でも多くの人が助かってほしいです。

被災者の方は今凄く大変だと思いますが、
前を向いて助けあって頑張りましょう。
早くみんなが笑顔になれますように、心よりお祈りしています。

タイ・プレミアリーグ
BEC テロ・サーサナ所属
財前宣之


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 財前 宣之(ざいぜん・のぶゆき)
 1976年10月19日生まれ。北海道室蘭市出身。99年よりベガルタ仙台、06年からはモンテディオ山形へ移籍。東北の2クラブで11シーズンを過ごし、両チームのサポーターから絶大な信頼を得た。10年よりタイの強豪、ムアントン・ユナイテッドFCに移籍し、11年よりBECテロへ期限付き移籍中。徹マガには「新天地タイで夢見る人びと 第2回」(通巻第27号)にて出演。



ヴィタヤ・ラオハクルさん(チョンブリFC TD)
「日本人には、世界中の誰にも負けないディシプリンがある」


 日本は私の第2の祖国と呼んでも差し支えない存在なだけに、今回の震災についてはとても心を痛めています。
 震災当日、私はずっと自宅のテレビにくぎ付けになっていました。その被害の膨大さが信じられず、思わず涙が出そうになりました。
 今後の復旧には、相当の時間がかかることでしょう。

 でも私はポジティブに捉えています。なぜなら日本人には、世界中の誰にも負けないディシプリンがあるからです。
 私は10年以上、日本で暮らしていたので、日本人のそうした特長はよく理解しています。
 今は苦しいときでしょうが、全員が前を向いて、皆で力を合わせて復興に向かっていってほしいと思います。

 今はJリーグが中断しているそうですね。
 私がいたガイナーレ鳥取は、開幕戦のアウェーで敗れてしまいました。
 そしてJリーグでの初めてのホームゲームというタイミングで、残念ながらJリーグの試合は中止になってしまいました。
 フィジカル面でもメンタル面でも、再びピークにもっていくのは大変でしょうが、リーグ戦再開後をにらんでしっかりトレーニングを続けてほしい。
 そしてぜひ、初めてのホームゲームに勝利してほしいです。

 タイのプレミアリーグはすでに開幕していますが、日本人の選手が募金活動やチャリティー活動を開始しています。
 私がいるチョンブリFCにも、元日本代表GKコーチの加藤好男がいますし、日本人選手もいるので募金活動をしています。
 今のところクラブとして2000万円。これに次のホームゲームの収入の一部をプラスして、復興支援の募金に充てる予定です。

 最後に。
 今回の震災は大変残念なことですが、残念ながら人間には自然災害を食い止めるだけの力はありません。
 助かった人たちは、これからもしっかりと生きていくことを考えるべきです。
 復興までの道のりは長いですが、一歩一歩前進して、この難局を乗り越えていっていただきたい。
 心からそう願っています。

 チョンブリFC ヴィタヤ・ラオハクル(電話インタビュー)


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 ヴィタヤ・ラオハクル(Withaya Laohakul)
 1954年2月1日、タイ王国ラムプーン県出身。現役時代は、日本リーグの松下電器でプレー。07年にガイナーレ鳥取のヘッドコーチとして再来日。同年8月に監督に昇格後、10年2月に交通事故のため辞任するまでの2年半、鳥取のJ2昇格のために尽力する。志半ばで鳥取を離れたものの、今も日本サッカー界の情報収集に余念がない。現在はチョンブリFCのTDとして、クラブの育成システムのさらなる充実と発展に情熱を燃やす。徹マガには「新天地タイで夢を求める人びと 第3回」(通巻第28号)にて出演。



中村和彦さん(映画『アイコンタクト』監督)
「思いを馳せること、きちんと考えること」


 アジアカップのDVDを自宅で編集している真っ最中でした。3月11日に地震が起きた時のことです。その時最初に考えたことは「編集したデータが失われたらどうしよう」ということでした。その後もまったくおさまる気配のない地震にとんでもないことが起きている予感を感じ、テレビをつけてしばらくすると「それどころではない人々」「命をも奪われた人々」が多数いるであろうことを知り、ただただ呆然としてしまいました。

 しかし編集は進めねばならず、日本代表の選手達が優勝の喜びを爆発させている姿をパソコン画面で見る一方で、テレビ画面を見ると深刻な被害が次から次へと報道される。頭の中が分裂しそうな中、今年の数少ない明るい話題であったアジアカップ優勝の映像を皆様にお届けするのも俺の使命だと勝手に思い込むことで何とか編集を進めてきましたが、地震による被害の情報をきちんと得ることも出来ず、被災地に思いを馳せる時間もとれないまま事ここに至っています。そんな中での原稿依頼で、「今自分に出来ること」はこれくらいという思いで原稿を書いています。限られた時間の中、尚且つ寝不足につき少々おかしな部分がある点はご容赦ください。

「自分に出来ることは何かを考える」という言葉を各所で見かけます。実際、様々なことが行なわれているようですが、自分自身で直接何かをやれる人は少数だと思います。大切なのは、思いを馳せること、そしてきちんと考えることだと思っています。

 例えば、もし自分が避難所で生活していると想像してみる。もちろん現実の方が想像を超えているわけですが、想像することによって何が足りていないかということに思いがいたるかもしれません。もちろん物心両面で。あるいは100円でも1000円でも募金箱に入れたとしたら、食べ物を温めるための数分間の燃料代にはなるかもしれない等と思いを馳せる。そうすれば、義援金の効果的な使われ方にも関心がいくかもしれません。

 そしてきちんと考えること。情報を右から左に流すのではなく自分の頭で考えること。そうすることによって風評被害を食い止めることができるかもしれません。意味のない買占めもなくなることにつながるかもしれません。きちんと考えて、イベント・行事等の意味のない自粛をやめることにつながるかもしれません。電力や安全性の問題で中止にすることは仕方ありませんが、「こういう時にこういうことをやっていると何か言われるかもしれない。だからやめておこう」。そういった考え方こそ、やめなくてはならないと思います。サッカー大会、花見、宴会、甲子園のブラスバンドの応援、そして仕事もどんどんやれ、です。支障のない範囲内ではどんどん経済活動にいそしもう、です。

 最後に聴覚障害者のことに少々ふれておきます。被災地や避難所では情報不足が大変な問題になっていたようですが、耳からの情報がない聴覚障害者にとって事態はさらに深刻です。当初情報源はラジオだけという報道がありましたが、当然聴覚障害者にはラジオは聞こえませんし、避難所でも声によるお知らせだけで情報がつかみにくかったようです。また筆談する場合も、夜は懐中電灯やろうそくが不足しており、なす術がなかったこともあったようです。その他、補聴器の電池不足等々。

 まとまらない文章で大変失礼しました。


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 中村和彦(なかむら・かずひこ)
 早稲田大学第一文学部在学中よりピンク映画の助監督を務め、フリーの助監督・監督補として、数多くの監督につき、テレビドラマ、オリジナルビデオ、劇場用劇映画、サッカー関連DVD、ドキュメンタリー映画等の監督を経て現在に至る。主な監督作品に『棒』(02年フィラデルフィア国際映画祭正式出品他)、『日本代表激闘録 南アフリカワールドカップアジア地区予選』(09年)をはじめとする日本代表激闘録シリーズ、『ワールドベースボールクラシック日本代表V2への軌跡」(09年)など多数。長編ドキュメンタリー映画『プライドinブルー』(07年)で文化庁映画賞優秀賞受賞。最新作は、ろう者サッカー女子日本代表を追ったドキュメンタリー『アイ・コンタクト』。徹マガには「サッカードキュメンタリーの現在」(通巻第14号&15号)にて出演。



吉田鋳造さん(「吉田鋳造総合研究所」所長)
「人間は、しぶとい」


 ぼくは『吉田鋳造』と名乗っている。『鋳造』というのは、ペンネームではなく、あだ名だ。でも、自分でも気に入っているので20年以上も使い続けている。友人はもちろん、パートナーもぼくのことを『鋳造』と呼ぶ。そしてこの呼び名が付いたのは、仙台の大学に通っている頃。現在のこうした生き方を選択している自分、即ち『吉田鋳造』の故郷が、仙台だ。

 ぼくは4年間を仙台で過ごした。だから、広範囲に及んだ今回の被災地の中でも、どうしても仙台が、宮城県が気になる。何度も何度も利用した仙台空港が津波で覆われていくところを、テレビのライブ映像で視た。田んぼやビニールハウス群が、むちゃくちゃな縮尺の映像で黒い水塊に呑まれていくところも視た。学生時代に、まだサッカー観戦にハマる前で“路線バスめぐり”を趣味にしている頃に何度も行き、何度も視てきた景色だ。

 石巻も、志津川も、気仙沼も、残酷なまでに景色が変わってしまった。亡くなってしまった方も、本当に大勢いる。ご冥福をお祈りすることしか、できない。でも、そんな中で生き残った方々も、大勢いる。

 実は、今年の東北リーグで「女川陸上競技場に、コバルトーレ女川の開幕戦を観に行く」というのは選択肢の一つとしてぼくの中に存在していた。コバルトーレの選手・スタッフの皆さんは全員無事で、いまは避難所に救援物資を運ぶなどの復興活動に尽力をされているとのこと。現地の方々は、それこそ必死で「生きていく」ために最大限の努力をされている。

 女川の街が再興出来るかは、ぼくにはわからない。再び「コバルトーレ女川」というサッカークラブが始動出来るのかも、わからない。もしかしたら、いまの選手の方々が“選手”でいられる間にはできないかもしれない。それでも、いつかまた「コバルトーレ女川」というクラブが立ち上がる日が来ることを願う。

 ぼくに出来るサポートなんて、ほんのちっぽけだ。このメルマガを読んでいる皆さんのサポートだって、おそらくはちっぽけだ。でも、そんなちっぽけなサポートが集まることで、パワーになる。その先に、未来がある。

 どうしても自分の経験でしか語れないのが申し訳ないのだけど、末期ガンを克服して、いまこうして生きているぼくには一つの確信がある。「人間は、しぶとい」。それは、ぼくが生きている間は絶対に譲れないテーゼだ。


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 吉田鋳造(よしだ・ちゅうぞう)
 1964年6月、東京都日野市生まれ。ニフティサーブ・JFLフォーラムの西濃運輸・デンソー会議室のボードリーダーを務め、現在はFC岐阜のサポ製作フリーペーパー「FC岐阜大好き通信(岐大通)」の編集・発行人。ピッチ原理主義を標榜して全国のローカルサッカーを観て歩く。
 サッカー観戦通算1100試合以上だが、日本代表の国際AマッチはカズがFWだった1997年・ブラジルワールドツアー(長居)と、今年のワールドカップ直前の東アジア選手権・韓国戦(国立)の2試合のみ。徹マガには「観戦者としての矜持、表現者としての主張」(通巻第32号&33号)にて出演。



三原健朗選手(ブラインドサッカー日本代表)
「人生を決してあきらめないで」


 去る3月11日に発生した東北関東大震災は、史上最大の地震と、大津波により未曾有の大災害となりました。被災された皆様には心よりお見舞い申し上げますとともに、犠牲になられた方々に対し心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 私は、たまたま災害に遭っていないだけであって、今回のことは他人事ではないと感じています。災害に遭われた方々のことを思うたびに、ただただ胸が痛むとともに、その方々が、一日でも早く暖かい場所で安心して休めることを祈るばかりです。

 そして、祈るばかりではなく、被災に遭われた方々に、まずは安心して休める環境が得られるように支援していくのは、私たち一人一人の役割ではないかと思います。私たちにできることを行ない、そのような環境で、まずは休んでいただき、それから前に進んでいただきたいというのが、私の願いです。

 中途失明を経験した私から、もう一言だけお伝えさせていただきたいと思います。状況は異なるとは思いますが、人生を決してあきらめないでいただきたいということです。

 私事ですが、私は、18歳の時に完全に失明しました。それまでにも、視力低下の進行とともに、大好きだったサッカーなど、たくさんの見える世界を失っていきました。そのような中で、一時は自暴自棄に陥りました。しかし、周囲の方々の愛情の中で、自分をあきらめませんでした。人間の可能性や人生をあきらめませんでした。今の自分があるのは、自暴自棄の自分に愛情を注いでくれた方々や、人生をあきらめなかった自分があったからではないかと感じています。

 そして、今も、どんなに世界で勝てなくても、可能性を信じて、あきらめずにボールを追いかけ続けています。

 我々、ブラインドサッカー日本代表は、日頃より多くの方々のご支援のもとで目標に向かって活動しています。そのような中で、「自分にできることは何でもさせていただきたい!」という気持ちで、ぜひ皆様に伝えたいと思いました。

 私自身も、これからも被災された方々のために、自分ができることを考え続け、実行していきたいと考えています。だから、皆様も人生をあきらめないでいただきたいのです。これが私のもう一つの願いです。

ブラインドサッカーB1クラス日本代表キャプテン
三原健朗 (みはら・けんろう)

日本ブラインドサッカー協会
http://www.b-soccer.jp/

写真提供:日本ブラインドサッカー協会

 三原健朗(みはら・けんろう)
 1974年8月9日、福岡県生まれ。現所属チームはラッキーストライカーズ福岡。2004年5月に日本代表に初召集され、2006年の第4回世界選手権より代表キャプテンを務める。好きな選手はマラドーナ、中村俊輔、松井大輔。徹マガには「目指せベスト4! ブラインドサッカー日本代表」(通巻第13号)にて代表メンバーの一員として出演。



中村武彦さん
(Lead Off Sports Marketing ゼネラル・マネージャー)
「一刻も早く、平穏な日々が戻られますように」


 東日本大震災の報を受けたのは、アメリカ東海岸朝方6時40分に携帯が鳴ったときだった。「目覚ましをこんな時間に設定したっけ?」「日本から仕事の電話にしては早いなぁ」などと寝ぼけながら電話主を見ると、北米独立リーグ・ピッツバーグでプレーをする原田慎太郎からだった。そこまで深刻に考えることなく、起きてからPCを立ち上げ、「朝ごはんを」などと思いながら画面を見ると、「東北地方を中心にした大地震が発生」の報が目に入る。

 瞬間的には、その恐ろしさが自覚できなかった。しかし内容を読むにつれ、徐々に言いようのない恐ろしさが……。そこからひたすら繋がらない電話をし続け、自分と妻の両親・家族の安否が確認できたのは約8時間後のこと。妹と連動しながら、何とか幸いなことに両親の携帯電話がようやく繋がった。都内から自宅まで、10時間以上かけて徒歩で帰宅したとのこと。

 CNNなど各局では、日本での震災のニュースを一斉に流しだす。ハワイへの津波の影響の実況中継から始まり、NYの日本人向け有料放送「ジャパンTV」が臨時で無料開放となり、NHKニュースをライブで視聴できるようになると、在米邦人の大部分はTVに釘付けとなった。映像でしか伝わってこないが、その衝撃は凄まじく、言葉にならない。会社に行っても、ネットでニュースを見るにつけ陰鬱になる一方。日米間の情報内容のギャップに、不安に駆られる。

 一方で「自分は何が出来るのだろうか?」と考え、とにかく個人レベルではオンラインから赤十字社などに寄付金を送った。当地の取引先や友人たちからは、多数の励ましのメールをいただく。「Thinking of you」。映像を見るだけであれほどのショックなのだから、当地の方々のことを考えるだけで胸が押しつぶされる気持ちになった。

 スポーツ界ではいろいろな動きがあり、しかも迅速であった。NYヤンキースなどは、すぐに義援金10万ドルを送ることを発表。原田慎太郎(リバーハウンズ)は開幕戦に彼のユニフォームをオークションにかけ、売り上げを寄付する企画を進めている。元日本代表山田卓也も北米でプレーをする日本人選手たちに声を掛け、代表として、どういうムーブメントを起こすのが良いのか、所属クラブのFCタンパベイなどとも検討中。

 元日本代表廣山望が今季プレーをするリッチモンド・キッカーズも、彼の合流と同時に企画を立ち上げようとしている。他のプロスポーツ団体たちも様々な形で、支援を公表した。メジャーリーグベースボール(MLB)など各種団体は震災支援ページを立ち上げた。メジャーリーグサッカー(MLS)はリーグ公式サイトのトップページより、この震災支援のページへのリンクを表示させた(アメリカのメジャースポーツのリーグとしては異例のことだ)。

 一方で筆者も、夏にNYで開催されるアマチュアW杯があり、日本代表のチームメートたちと「何かできないものか」と話し合った。結論を出すよりも、いてもたってもいられなくなり、主将主導の下、チーム皆で日本代表のユニフォームを着用し、マンハッタンで一番の繁華街タイムズスクェアに出向き、街頭で募金活動を敢行することとなった。

 考えるよりも前に行動を取ったにもかかわらず、道行く人々が次々に立ち止まっては口々に励ましやお悔やみの言葉と共に募金に協力をしてくれた。丁寧に「頑張ってね」「皆応援している」「負けるなよ」と真摯に声を掛けてもらいながら、募金をしていただくことができた。街頭で募金活動をするなんて初めてのことだったが、とにかく何かをしたかった。その中でこれほど多くのニューヨーカーたち、観光客たちが日本のことを思ってくれているという事実に感動した。

 後日、近所のカフェで座っていても、あるいはオフィスにいても、「日本人か? 本当に大変だと思うけどがんばってくれ、応援している」「家族は無事なのか?」という言葉をかけられる。また「こんな状況下でも、モラルが高く、復旧や救援に取り組む日本人の強さに驚いている。アメリカだったら皆、規律もなく、各々走り回り、暴動も起きてもおかしくないのに。日本人のメンタリティには敬意を表する」とも言われた。地元の高校生たちも「何かできないか」と学校内で手作りのクッキーやパンを焼き、校内での売り上げを寄付していた。

 日本食スーパーでは、お客さんがわざわざレジの店員さんに「とにかくくじけないで、皆で祈っています」と声をかけにきたり、ユニオンスクエアでは、NY在住のママさんグループが街頭募金活動を実施したり、NYのあらゆるところで、日本に向けての活動を目にする。NYという人種の坩堝(るつぼ)ゆえかもしれないが、多くの人々が応援してくれていることに心を打たれ、感動した。

 遠くからではありますが、東北関東大震災及び信越地区の地震で被害に遭われました皆様、そしてご家族やお知り合いの方が被害地域におられ、心配されていらっしゃる皆様に、一刻も早く平穏な日々が戻られますよう、心より願っております。行方不明者の早期救出、二次災害の防止を心からお祈り申し上げます。そして東北地方太平洋沖地震によりお亡くなりになった方々に心から哀悼の意を表しますとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。

【近況】
●今月初めに第一子となる長女が生まれ、「ますます頑張らなくては」と良いプレッシャーを受け、一層気が引き締まる思いです。
●文中にも出てきましたが、NY市ブルームバーグ市長が開催するW杯(http://cosmoscopa.com/#)の日本代表に選出され、6月の予選に向けて頑張っております(http://www.team-japan-nyc-soccer.org/teamjapan/)。
●仕事の方では、パンパシフィックチャンピオンシップを復活させることが出来ましたので、引き続き精進させていただくことが出来れば幸甚です。


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 中村武彦(なかむら・たけひこ)
 1976年4月29日、東京都町田市生まれ。04年、メジャーリーグサッカー(MLS)広報部にてインターン後、日本人として初めて国際部入社。FCバルセロナ、イングランド代表、アルゼンチン代表、メキシコ代表など、150を超える国際試合のプロモーション・マーケティング業務に従事。10年、ニューヨークに本拠地を構えるリードオフ・スポーツ・マーケティングのゼネラル・マネジャーに就任。2010年9月1日より、MLS国際スカウト・アジア担当などにも就任。徹マガには「太平洋の向こう側から日本を想う」(通巻第24号&25号)にて出演。


中村武彦氏より、在米プレーヤーの取り組みについて


 中村武彦氏より、今回の震災に関する在米プレーヤーの取り組みについて情報をいただいた。日本ではほとんど知られていない情報なので、ここに掲載させていただく。

■山田卓也(FCタンパベイ/NASL)
・FCタンパベイと、クラブとして何が出来るかを検討中
・赤十字社現地支社より募金箱を取り寄せ、空港でのサイン会後に募金を呼びかける
・プレシーズンマッチ終了後、会場で募金を呼びかける
・タンパに限らず、フロリダ州内の日本人たちが募金活動をしているオーランドや、メルボルンなどにも積極的に参加
 
■吉武剛(FCタンパベイ/NASL)
・開幕戦、アメリカでプレーしている日本人選手は喪章をつけてプレーする。あるいは、日本国旗をあしらった腕章を作ってプレーする。
・開幕戦に来場した観客と一緒に日本に想いを届けてもらえるよう、選手が作ったメッセージ入りの看板や旗(「pray for Japan」など)をグラウンドに掲出する
 
■原田慎太郎(ピッツバーグ・リバーハウンズ/USL)
・所属クラブが開幕戦でユニフォームをオークションにかけ、売り上げを寄付する予定
 
■広山望(リッチモンド・キッカーズ/USL)
・所属クラブは、広山選手合流と同時に、募金活動をクラブとして公式に実施予定
 
■松下幸平(アトランタ・シルバーバックス/NASL)
・所属クラブは、ホーム開幕戦の売り上げの一部を松下選手の名で寄付することを決定

■木村光佑(コロラド・ラピッズ/MLS)
・個人公式ブログに、赤十字社への募金リンクを掲出
・MLSのホーム開幕戦で、1席につき5ドルを義援金として赤十字社に寄付することを決定



千田善さん(国際ジャーナリスト、通訳・翻訳者)
「あなたたちと共にある」

 今回の東日本大震災・大津波にさいしては、犠牲者の冥福を祈るとともに、被災者のみなさんには心からのお見舞いを申し上げます。元日本代表監督オシム夫妻からも、お見舞いと激励のメッセージをいただきました。

 日本での大地震、大津波、原子力発電所のニュースを息が止まるような気持ちで見ています。大きなショックを受けています。
(地震発生の3月11日以来)CNNでずっと日本の様子を見ています。しかし昨日(11日)は祖母井さん(元ジェフ千葉・現京都サンガ強化担当)以外は誰にも電話がつながらなかったので、とても心配でした。
 たくさんの犠牲者、被災者の方々にお見舞い申し上げます。また、日本でのわたくしたちの友人たちの安否も気遣っています。
 こういう困難な時だから連帯感を見せて乗り越えてほしい。その連帯の中には、私も入っています。10年近く日本で暮らし、私の心はいつも日本の人々と共にあります。
 日本人ならば、どんな困難も乗り越えてすぐにでも日常に復帰できることを信じています。こんなときだからこそ、サッカーが人々の心を明るくしてほしい。
 日本サッカー協会、代表チームのスタッフ・関係者、Jリーグ各クラブや選手たち、サポーターのみなさま、その家族や友人たちの安全を祈っております。
 みなさまに心からのご挨拶を送ります。

アシマ&イヴィツァ・オシム(3月12日)

 最終的な犠牲者はおそらく5万人、避難民50万人のスケールで進行している大災害に戦慄しながら、1999年のコソボ危機を思い出しています。ちょうどリビアで同じようなNATOによる軍事作戦が進行していることも、なんだか偶然とは思えないほどです。
 いまから12年前、季節も同じ3月。コソボから追い出されたアルバニア系住民の難民キャンプに取材に行ったおり、大勢に取り囲まれました。「携帯電話を持っていないか?」――1人の人間として無力感に襲われました。何とか助けてあげられないものか――数日して難民キャンプには衛星電話が開通し、少しだけ安心したものです。
 1992年からのボスニア紛争でも、99年のコソボでも、命からがら助かった避難民・被災者の第一の関心事は「家族・友人の安否」です。何よりもまず、安否情報でした。そして一息ついて、飲料水、トイレ(衛生と感染症対策)、テントや収容所(集団の宿舎)、食事、着替え、風呂、新聞、電気、テレビ、プライバシー(家族別の宿舎)、新しい仕事あるいは故郷への帰還などの順番で、必要なものの種類が変わっていきました。
 戦争と自然災害は同じではありませんが、自宅やふるさとを失った避難民のニーズは似ています。
 もちろん最初はサッカーどころではない。生命を取り留めて、水や食料の心配がなくなって初めて、歌やスポーツが慰めとなる。どんなにすばらしい音楽や試合でも、家族の安否が心配な状況では受け付けません(芸術家や選手たちも、災害のショックが大きければ良いパフォーマンスはできないでしょうし)。しかし、状況によりますが、数週間ほどすれば必ず、芸術やスポーツへの欲求が生まれることでしょう。
 3月21日には被災後初めて、テレビから現地の歌声が流れました。大船渡中学の卒業証書授与式後の「ふるさと」でした。これから新学期の教室や教科書、筆記用具の心配をしなければなりませんが、しばらくしたら、野球を、サッカーを、という要望の声が被災地からも寄せられるに違いありません。

 旧ユーゴスラビア各地の紛争を取材し、その縁で(?)日本代表のオシム監督の通訳もつとめた自分が、いまになって、ふるさとの東北地方の人びとのこのような苦しみを見ることになるとは、予想どころか想像もしていませんでした。
 幸いにして、わたしの実家は岩手県でも内陸部にあり、今回、家族は無事でした。しかし数日間、電話が通じず、やきもきしたあげく、やっと地震から5日目に話すことができました。母親は、地震の恐怖とともに「3日間、停電で暖房が使えず寒かった。電気が通じて初めて津波をテレビで見た。陸前高田はなくなってしまった」と絶句していました。
 いま、沿岸各地の避難所はまだ電気も水道も復旧しておらず、春とはいえ北国のこと、寒さをしのぐのが精一杯です。援助物資が届きはじめたところでは、いまの一番の願いは温かい食事、それともお風呂でしょうか。つぎは新聞やテレビかもしれません。
 かれらはこれから電気が復旧したところで、自分がどのような津波に流されたのか、どのように町が押し流されたのかの映像をテレビで見ることになります。心のケアの点では、これからが救援のたたかいの本番です。そのときに、経済的復興の希望とともに、芸術やスポーツなどの慰めが助けになると思います。いや、助けにならなければなりません。

 いまは、被害の巨大さの前に、ややもすると足がすくみそうになるためなのか、わたし個人は「がんばれ」よりも「がんばろう」よりも、欧州サッカー連盟(UEFA)のキャンペーンスローガン「あなたたちと共にある」が心にしみています。バイエルン対インテルの試合前、電光掲示板の「WITH YOU JAPAN」という文字に涙が出そうでした。
 これは「WE ARE WITH YOU, JAPAN」あるいは「WE STAND WITH YOU, JAPAN」の略で、直訳で「日本よ、われわれはあなたたちと共にある」――かみくだけば「ぼくたちは君の味方だ」「わたしたちが一緒についているよ」。冒頭のオシムさんのメッセージにも「私の心はいつも日本の人々と共にあります」という表現が使われています。
 同じ試合の後に、リバプールやFC東京などの応援歌として知られる「ユール・ネバー・ウォーク・アローン=YNWA」(きみはひとりぼっちじゃない)が流れましたが、この歌も同じように、寄り添い、支えてくれる暖かさのあるサポートソングです。
 自分たちは見捨てられていない、と実感できるとき、勇気や希望がわいてくるのかもしれません。勝てるかどうかわからない強敵との一戦を前にしたときも、震災・津波の困難に立ち向かうときも、頼りになるのは仲間です。
 Jリーグの再開が4月下旬に決まりましたが、そのころにはきっと「がんばろう」「がんばれ」という言葉にも違和感がなくなっていると思います。またスタジアムで元気な姿が見られますように。(3月23日)


(C) tete Utsunomiya

 千田善(ちだ・ぜん)
 1958年、岩手県生まれ。国際ジャーナリスト、通訳・翻訳者(セルビア・クロアチア語など)。のべ10年の旧ユーゴスラビア生活後、外務省研修所、一橋大学、中央大学、放送大学などの講師を経て、イビツァ・オシム氏の日本代表監督就任にともない、日本サッカー協会アドバイザー退任まで(2006年7月〜08年12月)専任通訳を務める。サッカー歴40年、現在もシニアリーグの現役プレーヤー。著書:『ワールドカップの世界史』(みすず書房2006)、『なぜ戦争は終わらないか』(みすず書房2002)ほか、訳書:G・カステラン/A・ベルナール『スロヴェニア』(白水社・文庫クセジュ2000)ほか。徹マガには「オシムの黒子が語る日本代表」(通巻第3号&4号)、「2010年日本サッカー大反省会」(通巻第35号〜37号)に出演。



島田哲夫さん(島田事務所株式会社)
「私は、忘れない」


 最愛の妻が亡くなり、今日、3月22日で、半年になる。
 「生き残った」私の悲しみが癒えることはない。1年後も3年後も、おそらく。
 涙が止まらなくなるのは、「生きていくことができなくなった」妻の無念さを想う時だ。

 今回の大震災で亡くなられた方々と、そのご家族の方々は、今年9月11日(日)に、その半年目の日をむかえられる。そして、その同じ日にNYでは、あのテロ事件の10回忌をむかえられる。
 多くの、しかし、おひとりひとりの「生きていくことができなくなった」方々と、「生き残った」ご家族を想う時、私はすべての言葉を失う。彼ら、おひとりひとりの無念さや悲しみは、半年後も、1年後も3年後も、決して癒えることはないと思う。

 あの日から半年後の東北・関東地域、日本全体やNYがどういう姿になっているのかを、私は正確に想像することができない。もちろん、私を含めて、この文章を読まれている、すべての方々の生活や人生も。
 ただお互い生きて、明日も9月11日も、その後も、お互いを、心から思いやり続けたい。

 しかし、その前に、我々「生きている人間」は、「生きていくことができなくなった」多くの方々、そのおひとりひとりの想いをかみしめ、弔い、祈り、鎮魂し、忘れることなく、語り続けていく必要がある。花を捧げ続ける必要がある。
 なぜなら、その方々を二度、死なせてはならないからだ。

 愛する者を亡くした多くの「生き残った人間」は、「死」が身近なものになる。「死」に対する恐怖や不安が少し弱くなる。
 私が思考停止状態に陥るのは、今もなお、冷たい水の上で、あるいは、重い瓦礫の下で「ここにいる。見つけてくれ」と捜索者の方々に呼びかけている、「生きていくことができなくなった」方々、そのおひとりひとりの姿と魂を想う時だ。
 私の願いは、その方々が、1人残らず発見され、1日でも早く、ご家族の元に戻られることだ。

 大部分のメディアは、「生きていくことができなくなった」方々の姿や言葉を一切伝えることはしない。そして、彼らにはできない。
 私は、「生き残った人間」として、亡くなられた方々、おひとりひとりの、恐怖や苦痛。無念さと悔しさ。寂しさや心細さ。凍えるような冷たさや押し潰されそうな重たさに、静かに想いを馳せたい。
 その方々は、翌3月12日(土)やその後に、卒業式や入学式が、Jリーグの観戦やディズニーランドや海外旅行やコンサートの予定が、デートやプロポーズや結婚式や出産、その他、多くの愉しい予定があったかもしれない。
 それらがすべて実現できなくなった無念さや悔しさを、まずは想いたい。
 大きな声で、何かを叫ぶ前に、まずは喪に服したい。今回の大震災と、ちょうど同じ日に亡くなられた世界の多くの方々、そう、私やあなたの街の病院で病気やケガで亡くなった方々にも、同じように哀悼の意を捧げたい。

 そして、可能な限り同じ地平に立ち、あるいは立とうと考え、「生き残った方々」の手を優しく握り、ただただ彼らのつぶやきを静かに聴きたい。
 彼らに、「がんばろう」という言葉は禁句だ。彼らはもう十二分にがんばっている。

 耳を澄まし、「生きていくことができなくなった」方々と、「生き残った人間」方々の、魂の奥底からの声を聴き取らない限り、何も始まらない。真の復興は始まらない。
「生き残った人間」は、自身もまた、生きていくことができなくなるその日まで、「生きていくことができなくなった」方々のことを忘れることなく、語り続けるために、生き残っていく必要がある。

 私は、最愛の妻と同様に、「生きていくことができなくなった」方々の無念さや悔しさを想い、供養し、語り続けるために、生き残っていこうと思う。
 私の身体の約60兆の全細胞がすべて使い物にならなくなるまで、希望を失うことなく、そして後悔することなく、生きていこうと思う。
 この長い文章を最後まで我慢して読んでいただいたみなさんと、相互に敬意と愛を抱き、何かの言葉を交わし、いつかどこかで出会い、笑顔で握手と抱擁ができる日が来ることを祈って。


(C) tete Utsunomiya

 島田哲夫(しまだ・てつお)
 1962年8月25日、広島県尾道市生まれ。2000年、(株)日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ)入社。プロ契約社員として、ホームタウンの変更諸作業。スポンサー営業等担当。03年、(株)湘南ベルマーレ入社。マーケティングのGMとして、世界初の大学との共同プロジェクト、スペインのCAオサスナとの提携業務等を担当。07年、島田事務所(株)を設立。2010年7月1日より、日本人としては初めて、タイ・プレミアリーグ、IPU(INSEE POLICE UNITED F.C.)のオフィシャル・アドバイザーに就任。11年3月7日、(株)岐阜フットボールクラブ 顧問就任。徹マガには「そうだ、タイに行こう!」(通巻第18号&19号)にて出演。



親愛なる読者の皆さまへ(編集部・澤山)


 いつもご愛読ありがとうございます。編集部の澤山大輔です。通常は、このように私が個人として書くことはありえないのですが(あくまで、ライターの表現の場であり、編集者はそれを支える立場というスタンス)、今回宇都宮より特別に許可をもらい、皆さまに対する思いを伝えさせていただければと思います。

 2011年3月11日以降、皆さまにどのような言葉を届けて良いのか、煩悶いたしました。

 多くの方々の人生を決定的に狂わせてしまった(そして多くは、二度と元には戻らない)事態を前に、われわれライターや編集者というものがいかに無力で矮小な存在であるか、あらためて突きつけられました。

 関東圏において、今すぐ「プロサッカー」の出番はないでしょう。「プロサッカー」には、多くの人々が絡みます。マッチメーク、会場確保、会場設営・撤去、プロモーション、チケッティング、運営、物販、警備などに加え、もちろん選手・監督・審判団、そして来場いただく多くのサポーターの皆さま。

「プロサッカー」が非常に多くの方に支えられていることを、Jリーグ中止決定の報を聞いてあらためて確認しました。同時に、これほど多くの方々を一箇所に集めることは大変なリスクを伴います。余震の続く関東圏における代表戦を中止したJFAの判断は、極めて妥当なものと考えます。

 ただ、これはあくまで「プロサッカー」の判断であり、サッカーそのものの停止ではありません。ボールがあって人があれば、サッカーは成り立ちます。ゴールさえなくても、パスを渡すことで心の繋がりを確認できます。ボールをもらうために動くだけで、気持ちが通じ合います。サッカーとはコミュニケーションそのものです。人類の営みが続く限り、サッカーも永遠に続きます。

「プロサッカー」も、いつまでも休止はできません。チャリティーの必要性と同時に、プロサッカーリーグとして収入を得なければ、選手に支払う給料さえ滞ってしまうのです(そして多くのチームにその危険があります)。「自粛」の波は、Jリーグに具体的な圧力となってのしかかり、経営破綻するクラブを出しかねません。それは恐るべき二次災害、三次災害です。

 被災された読者の皆さま、心よりお見舞いを申し上げます。月並みな言葉となり、大変お恥ずかしいですが、一日も早い復興と、心の安寧を取り戻されることを。私どもサッカーメールマガジンにできることは、サッカーの素晴らしさを伝え、対価をいただき、それを義援金として収めることだけです。甚だ心もとない存在ですが、何卒お許しください。

 被災地より遠くに居住され、ひとまず「安全」といえる読者の皆さま。どうか、自粛なさらないでください。バリバリ働いて稼いで、多くの税金を収めてください。おいしいレストランに行き、楽しい時間を過ごしてください。遠出をして、美しい景色を見てください。その上でサッカーの灯を消さないよう、毎日少しでも良いのでボールを蹴り、テレビで試合を観戦し、そこで躍動する選手たちの姿を目に焼き付けてください。そして、ついでにサッカーメールマガジンを。

 われわれは、「表現すること」でご飯を食べさせていただいています。その媒体が「サッカー」であり「メルマガ」であるというだけです。決して、「たかがサッカー」「たかがライター」「たかが編集者」とは思いません。「自粛」の皮をかぶった暴力には、断固として反対いたします。

 当メルマガはこれからも、サッカーの素晴らしさを伝え、その伝え方の巧拙によって対価をいただき、日本経済を支える一つの歯車として存在し続けます。読者の皆さまにおかれましては、今後とも倍旧のご愛顧を願い上げます。

2011年03月19日 編集部・澤山 記


(C) tete Utsunomiya

 澤山大輔(さわやま・だいすけ)
 1978年12月、広島県出身。フリー編集・翻訳・通訳者。関西学院大卒業後、複数のサッカーメディアを経て2007年に独立。訳書に『ダービー!!―フットボール28都市の熱狂』。2010年より『徹マガ』『小澤一郎のメルマガでしか書けないサッカーの話』など、複数媒体の編集を担当。